上海の屋台で、スマートフォン決済できないのは20店に1店だけ。空港で「白タク」は客引きなどしない――。中国でフィンテックがリアルに普及しはじめた。その勢いは、まだ「机上の議論」にとどまる日本をはるかにしのぐ。だが怖さもある。国家が触手を伸ばしたとき、膨大なデータは監視の道具として凄(すご)みを増す。...
上海の屋台で、スマートフォン決済できないのは20店に1店だけ。空港で「白タク」は客引きなどしない――。中国でフィンテックがリアルに普及しはじめた。その勢いは、まだ「机上の議論」にとどまる日本をはるかにしのぐ。だが怖さもある。国家が触手を伸ばしたとき、膨大なデータは監視の道具として凄(すご)みを増す。
■芥川も見た風景が消える
「(船着き場を出ると)何十人とも知れない車屋(馬車の御者)が我々を包囲した」。1921年、芥川龍之介は上海を訪れたときの第一印象を「不気味に感ずる」と記した。それから1世紀。船は飛行機に、馬車はタクシーに姿を変えたが、空港で白タクの運転手が渡航者に群がる状況は変わらなかった。
ところが最近、この風景がめっきり減った。「警察の目を盗んで観光客に群がるよりも、配車アプリで捕まえる方が効率がいいし実入りも多い」。ある白タク運転手は3台のスマホをあやつり客を待ち、毎日数百元(数千円)の収入をスマホで受け取る。芥川も見た100年の慣習は、スマホの登場であっさりと消えた。
中国は今、人々の消費生活とお金の流れがガラリと変わる転換点に立つ。スマホが広がり始めたのが7~8年前。その画面を指先でなぞりお金を払えるスマホ決済は3年ほど前から急拡大し、2016年の決済総額は日本の国内総生産(GDP)を上回る39兆元(約660兆円)に達した。14億人の巨大な消費マネーを追い求め起業家がシェア自転車や生鮮食品の30分配送など斬新なサービスを世に送る。
上海を拠点にベンチャー企業に投資するサイバーエージェント・ベンチャーズの中国代表、北川伸明(45)は「スマホ決済の基盤の上に、起業家が知恵を競い新サービスが波状的に広がっている」と話す。
■スマホ決済、毎秒2000件
日銀のリポートによると店頭でスマホ決済を利用する人は日米独が2~6%。これに対し中国では98%が「3カ月以内に使った」と答えている。試しに上海の一角に十数年前から密集する八百屋や雑貨店、屋台など20店に聞くと、電子決済を使えないのは婦人靴店1店のみ。ある飲食店員は「支払いの9割がスマホだ」と話す。中国のスマホ決済は「アリペイ」(アリババ集団系)と「ウィーチャットペイ」(騰訊控股=テンセント系)の2強で延べ12億人が登録する。
1日の決済件数はアリペイだけで1億7500万回(16年10月現在)。アリペイを使うには実名や身分証番号の登録が必要。支払金額や商品、店舗名などの消費情報が、名前や年齢といった個人情報とひも付いた形で毎秒2000件のペースでデータセンターに蓄積される計算だ。「データは将来、新しいオイル(石油)になる」。アリババ創業者で会長の馬雲(ジャック・マー=53)の言葉を待つまでもなく、ビッグデータ解析やAI(人工知能)が進化する今のビジネス環境において、膨大なデータはなくてはならない「石油」だ。
では、この現代の石油を用いて何ができるのか。そのカギを握るのが、アリペイのアプリの中にある「芝麻(ゴマ)信用」という聞き慣れないサービスだ。「芝麻」は日本語で「胡麻(ゴマ)」。イスラム世界に伝わる物語「アリババと40人の盗賊」で主人公アリババが宝の山が眠る洞窟の岩とびらを開く際にとなえる「開けゴマ!」のおまじないは中国語で「芝麻開門!」という。
■信用度をメーターで表示
「ゴマ信用」を開いてみよう。画面には車のスピードメーターのような絵が表れ、針が左から右へぐんぐん移動する。利用者の過去の支払い履歴などをもとに個人の信用力を950点満点で評価する。米リーマン・ショックの端緒となった「サブプライムローン問題」で話題となった個人の信用力評価と似た仕組みだ。
信用スコアは勤務先や学歴など個人情報を追加入力すると増すシステムになっている。ちなみにアリペイの利用頻度が低く個人情報の入力を避けている記者の信用力は590点と、米国でいう「サブプライム層(スコアが660点以下の信用力が劣った層)」だが、頻繁に使う中国人の友人は840点。信用力が高い彼女はタイ旅行の際にWi―Fiルーターを無料で借り、シェア自転車「モバイク」を使う際に必要な299元のデポジットも不要だ。「メルカリ」のようなフリマアプリでも「信用スコアが高いと売りやすくなる」という。
こうした特典目当てに多くの中国人がこぞって個人情報を追加記入。アリペイが抱える個人データは厚みを増し、信用スコアは信頼度を高める循環を招く。
個人の信用力を読み誤って起きたサブプライム危機の例を挙げるまでもなく、信用力評価はビジネスのあらゆる側面で重要な意味を持つ。アリババが「現代の石油」を使って開けた岩とびらの先に眠る「宝の山」は、この信用情報に他ならない。
上海の金融街、浦東地区で営業する外資系の消費者金融会社は最近、「ゴマ信用」のスコアだけを元に無担保で最大5000元を貸し出すサービスを始めた。もちろん自社で培ってきた評価体系もある。だが、ゴマ信用の信頼度の高さや審査スピードの速さを考慮し、アリペイから信用情報を買うことを決めた。信用力の高い個人にアクセスしたい高級ブランド店、所得水準に合わせ効率的に広告を打ちたいメーカー、貸し倒れリスクを減らしたい金融機関――。中国では今、多くの企業がアリペイが見つけた「宝の山」に群がり始めている。
■フィンテックから「フィンライフ」へ
「机上」の議論を飛び出しリアルに普及し始めた中華フィンテック。だが、アリペイを運営するアント・フィナンシャルで最高戦略責任者(CSO)を務める陳竜(48)はこの表現に不服のようだ。「フィンテックという言葉はコンセプトにすぎない。人々の生活に浸透したとき、テクノロジーは生活(ライフ)の一部になる。中国で今起きているのは、『フィンライフ』への移行だ」
しかし、宝の山に群がるのは企業ばかりとは限らない。
8月、中国人民銀行(中央銀行)は18年中をめどに、電子決済はすべて人民銀系の決済システムを経由するよう通知を出した。アリペイだけでなく、アリペイを上回る登録者数を持つテンセントのスマホ決済「ウィーチャットペイ」も対象だ。スマホを手にする国民の経済活動を捕捉することが可能になる。
11月、河南省に住む劉稀(仮名)はアリペイの残高10万元を凍結された。地元の裁判所は劉が民事上の支払いを怠ってきたと判断し、「資産凍結」をアリペイ側に申請したのだという。浙江省や江蘇省など、同様の例は17年後半に入り急増している。地元メディアは「裁判所はアリペイとの連携ルートを確立した」とはやすが、そこにあるのは丸裸にされた個人情報を国家が利用する構図だ。
■国民監視のネットワーク
「赤信号を渡らないでください」。中国では今、交差点の至るところに設置された監視カメラと最新の顔認証技術を連動させ、赤信号を渡った個人を特定。大型画面などで注意を促すシステムが広がっている。だが最大の目的は交通安全ではないだろう。公安関係者は言い放つ。「国民の一挙手一投足の把握をめざす」。パンドラの箱は開きつつある。
スマホ決済によるお金の流れ、シェア自転車や配車アプリを使った移動情報、街中の監視カメラでとらえた目撃情報――。これらのデータが1つにつながるとき、一党独裁を維持したい共産党政権による国民監視のネットワークは完成をみる。
最新の技術と膨大なデータを使い利便性を増す中国社会。しかし、情報を保有する「企業」と、国を治める「国家」の垣根が限りなく低い中国が猛烈に最新技術を取り込んだ先にあるのは、100年前に芥川が感じたのとは違った意味で「不気味」な風景だ。

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